Craftsman来て見て体験演者

一枚の銀の板を叩いて 立体的な工芸品を生み出す
笠原 信雄(号・宗峰)
東京銀器

笠原 信雄(号・宗峰)

カン、カン、カン、カン、カン、カカッ。カン、カン、カン、カン、カン、カカッ。文京区本郷に古くからある木造の一軒家から聞こえてくる笠原信雄(号・宗峰)さんが奏でる銀の地金を叩く小気味いい音だ。いま作っているのは、東京銀器の急須。その名工として名高い笠原さんの鎚からは、使い込むほどにいぶし銀の輝きを放つ、創意工夫実に満ちた銘品が叩き上げられている。


江戸時代に遡る東京銀器

 

日本における銀器の歴史は古く、平安時代の延喜式の中に銀製の食器や酒器の名を見ることが出来るという。本格的に作られるようになったのは室町時代に各地で銀山が発見されてからのことだといわれ、 江戸時代になると、職人の仕事を描いた「人倫訓蒙図彙」(じんりんきんもうずい)の中に銀師の姿が見られ、町人の中でも銀器、 銀道具が広く使用されていたことがうかがわれる。現在は、東京が主要な産地であり、鍛金(打ち物)、彫金(彫刻)、切ばめ、鑞付けの4つの技法で装身具、 各種置物などの様々な物がつくられている。それが、笠原さんが手がけている東京銀器である。

 


制作中の急須。右手に持つのは、胴の中から当てる当て道具。

 

親から受け継いだ鍛金の技

 

笠原さんに純銀の板を木槌で打つ鍛金の技を見せていただいた。急須の胴の部分を作る最初の工程で、絞りと呼ばれる。絞りは、1㎜程度の厚みの純銀の地金を使い、均一の厚みに絞り上げながら、端打ちして仕上げる方法である。薄い円形の地金を叩いていって、立体的な急須の形になるとは、最初は想像もつかなかった。しかし、当て道具と呼ばれる鉄の棒の台座に地金を置き、いったん笠原さんの鎚の音が響き出し、一打ちの変形は僅かなるものの、安定したリズムがしばらく続くといつの間にか湾曲した美しい立体に変化していく様には驚いた。

 


材料の銀の地金を左手に持つ。右手にあるのが、この材料を叩いて作る完成形。注ぎ口も板から成形して、ろう付けする。

 


鍛金 地金を鉄の当て道具に当てて木槌で叩く

 

 

笠原さんは、「叩きながら厚みを感じている」のだという

 


絞った寸法を確認する

 

急須の底面の直径を出すまでに絞ったところで、笠原さんは手を止めた。「とりあえずこんなもん、これが鍛金の技術。最初の地金がこれだけ詰まった、まだまだ詰まっていく。

この(急須の)直径に曲げて、(急須の側面を)真っ直ぐにする(立たせる)のが第一段階」というが、薄い地金を叩いて縦に絞ると、地金と地金が重なって皺になるのが道理かとは思うのだが、そこはやっぱり職人の技。「確かに皺が出るはずなんだけど、一切重なっていないでしょ。重なっちゃうとそこから割れてきてアウトなんだから、ありそうだけどない。あとは、金槌で叩いて皺を取るんですよ」という。

金属は、叩くと硬くなるため、都度焼き鈍して地金を軟らかくすることが必要だ。「一回叩くと硬くなっちゃうから、一旦火に入れる。何回も、何回も、火に入れて叩く」それが、皺をつくらないコツでもある。だいたいひとつの急須を作るのには、一か月くらいを要するという。

 

高岡職人の流れをくむ技術

 

ところで、ほとんどあぐらかいて座ったまま仕事をする笠原さんであるが、他の東京銀器の職人さんと比べて一点だけ違う部分があるという。「うちは、当て金に地金を置くとき、その底面をいつも手前にして打つ。どっちの方向に地金を置いてもできる形は同じなんだけどね。それはうちの系列が高岡だから」と笠原さんはいう。

笠原さんの父、笠原銀器製作所の初代宗峰(勲七等授章)は、富山県高岡市の出身だという。「親父は次男坊だったから、食いぶち減らすために、地元の尋常小学校出てすぐに東京に来た。私は品川生まれで、途中で親父が戦争に行ったんで、富山に小学校3年までいたかな。復員した親父は、こっちで仕事の再開の準備をして、やっと出来るようになったというんで、昭和24年に家族全員を東京に呼んだんだ。親の仕事を継ぐのは当たり前の時代だったね」

いまでこそ、一点ものの美術工芸品としての価値が高い東京銀器であるが、当時は日用使いの銀製品の発注も多かったという。戦後しばらくは、進駐軍が帰国する際のお土産として、銀の洋食器が重宝された。その後のゴルフブームでは、銀の優勝カップがよく出た。「一番多いときで、親父と俺と、後に人間国宝になった職人も二人いて計5人。忙しい時には残業しなくちゃならなくて、夜通しガンガンやったでしょ。百十番された時もあったよ(笑)」と昔を懐かしむ。「親父が初代で、私が2代目でもう終わりさ。何人かは教えていましたが、まともになったのはいねぇんだよね。でも、自分の技術、技法は教えていきたい。死んでも自分の技術はあの世に持っていけないからさ」とも。

 


作る作品によって、様々な当て道具を使いこなす。「この道具とか、誰か若い人がいたら、独立するっていったらあげちゃうんだけどなあ」

 

創意工夫に満ちた東京銀器の探究

 

東京銀器の職人で良かったことを聞くと、「普通のサラリーマンだったら私の歳だとみんな辞めてるでしょ、でも私は、好きなものずっと作ってるよ。それが一番の魅力。普通はさあ、十年ってよくいうじゃないですか。本気になってやれば7〜8年でもできるようになる。でも私なんか、まだ修行だからね、ずっと勉強してますよ。もっと面白いものできないかなとか、別の技術と組み合わせるとどうなるかとか、いろんなこと考えてます」と、80を過ぎてもなお青年のような探究心をもっていることに驚かされる。

「漆なんかが好きで、いま取り組んでいる。銀器に定着するのは難しいけど、南部鉄器では漆を焼き付けるから私でも出来ないことはないと。銅の壺でやったら、けっこう大変だったけど、できたやつはかっこ良かったね」「ホームページも自分で作ってるんだけど、レスポンシブルWEBに移行できてないのが悩みなんだけど」と笑う。
2022年には、サントリーの依頼で、ザ・バルヴェニー クラフトマンシップ プロジェクトに招聘。スコットランドのバルヴェニー蒸留所を訪問し、その地で得たインスピレーションから、オリジナルタンブラーとグラスを創作した。その手触りと味わいは、区内4軒のバーで楽しめるという。

笠原さんは、長年に渡るものづくりの功績を讃えられて、平成24年に瑞宝単光章が授与されている。「うちは、親父が戦争と伝統工芸で2個もらっていて、私ももらって合計3個ある。そうはいってもさ、うちら女房子ども食わせるためにやっているだけで、それで勲章もらうのは申し訳ないと思っている」と、そんなエッセンスの効いた語り口に、東京の職人としての気概を感じる。

「銀の値段が上がって大変だけど、材料で残しておいてもしょうがないでしょ。作品にしておけば、俺が死んでも、女房が売ればいいだけで」そんなことを言いながら、笠原さんは、また次に何を作ろうかと構想を巡らせている。
 

笠原 信雄(号・宗峰)

伝統的工芸品「東京銀器」の伝統工芸士。 東京都優秀技能者。 文京区技能名匠者。 1956年文京区本郷に笠原銀器製作所を設立。父宗峰(勲七等授章)の後を継ぎ鍛金工芸を主にした金銀器製作に携わり、現在も日夜研究し続け、新しい技法に挑戦。文化財の修理修復複製なども手掛け、国宝出雲大社秋の鹿蒔絵螺鈿手箱、三嶋大社 梅蒔絵手箱の複製なども手がける。

所在地:文京区本郷3-12-8
問い合わせ先:syuho@kasaharaginki.com