Craftsman来て見て体験演者

江戸甲冑の匠の技を 日常にも取り入れた新しい美を創造
加藤 美次
甲冑士

加藤 美次

文京区向丘。本郷通りの都立向丘高校前から千駄木側に入った数々の寺院がある閑静な場所に甲冑工匠「加藤鞆美(かとうともみ)」の工房はある。日本では5月5日の端午の節句に男子の健やかな成長を祈願して甲冑を飾る風習があり、数百年前にも遡る鎧兜を縮尺して再現している。節句飾りとしての甲冑は、時代的には平安末期から鎌倉、南北朝、室町時代ぐらいまでの物が主体であるという。その様式は大別すると関東、関西に分けることができ、甲冑工匠「加藤鞆美」は、創業以来5代に渡って江戸甲冑づくりを営んでいる工房の魅力を語って頂いた。


京甲冑と江戸甲冑

 

江戸時代の上流武家社会では、男児誕生を祝って鎧一領を作ったといわれており、端午の節句においても等身大の鎧兜を飾っていたという。明治、大正期には、ごく一握りの家庭が節句に飾り物をしていた。そして一般庶民がくまなく五月人形を飾って祝うようになったのは、戦後のことと思われる。

「雅の京に無骨の江戸」といわれるように、甲冑のスタイルも京甲冑と江戸甲冑の2種類あると加藤美次(よしつぐ)さんはいう。「京甲冑というのは、貴族から発祥しているので雅やかなのです。京都ならではの、金糸、金襴や金箔を使って煌びやかな飾りをします。それに対して、江戸甲冑は、武家から発祥している実用的な甲冑なので、黒等の地味な中にも落ち着いた重厚感もある。その伝統的な江戸の甲冑を摸写して再現しているのが、「加藤鞆美」が作る江戸甲冑なのです」と語る。

 

兜の鉢に鋲を打つ

 

代々加藤家に引き継がれる江戸甲冑

 

現在、甲冑工匠「加藤鞆美」では、初代加藤鞆美さん(令和3年叙勲「瑞宝単光章」授受) と、2代目加藤鞆美の加藤美次さん、3代目加藤鞆美の加藤拓実(たくみ)さんの親子孫3代が机を並べて甲冑作りを行っている。工房の興りはさらに2代遡るという。

「もともと、私の曾祖父にあたる加藤秀山という人が漆塗りに金箔を貼る蒔絵師をやっていたのです。当時秀山の家に下宿していた人が、漆の煙草入れを作っていたそうなのです。それを見た秀山が、『これなら俺にもできるんじゃないか』という発想から漆を使った立体の工芸が始まり、甲冑作りに繋がったそうです」と加藤さん。

甲冑士としての秀山を継いだのは息子の一冑で、加藤さんの祖父である。一冑に師事した息子が3人おり、長男が一冑を継いで、次男である加藤さんの父は加藤鞆美として独立し、三男も加藤峻厳(しゅんげん)として分かれた。初代・加藤一冑は、国宝や重要文化財に指定されている甲冑の模写修理などにも尽力し、江戸甲冑の貴重な資料を次世代に遺したといわれ、その息子の加藤三兄弟は、父の資料と自身らの研究によって江戸甲冑を見事に再現し、三兄弟の作品は本物としての揺るぎない評価を得ているという。初代鞆美においては、研究のために博物館、展示会、神社、仏閣に足を運び実物の甲冑に触れて、現代の素材、技術、技法を取り入れた作品づくりを行った。京都府立文化博物館に納められている平治物語の絵巻の立体復元の鎧武者七分の一縮尺の鎧は、誰も真似の出来ないその精巧な造りが語り継がれる名品となっているという。

「私は、鞆美の息子なので、二代目加藤鞆美。鞆というのは、蔓を巻く道具のことでそこから字をとったそうです。私の名前は、鞆美を継ぐという意味で美次と名付けられました。息子の拓実は、三代目加藤鞆美になります。もともと秀山は、北区の滝野川。お祖父ちゃんは、文京区の西片で、親父が向丘に来たのです。

 

兜の鉢の下に付く𩊱(しころ)。

 

本物の甲冑を再現する江戸甲冑の技法

 

甲冑一つくるのには、どれくらいの時間がかかるのですか?という、通り一辺倒な質問をしてみたところ、「よく聞かれるのですが、答えるのが難しい」とう返答。というのは、甲冑は一体ごとに作るのではなく、十体以上まとめて作っていくからだという。今は、年間通して仕込んできた各種の素材を組み合わせる、まとめの時期で、この日は、兜の鉢を作っていた。

鎧は、大別すると兜の部分と胴の部分に分けられる。そして兜は、頭の入る鉢と、首を守るためにその下に付く𩊱(しころ)の部分に分けられる。鉢は、台形の真鍮の板を扇状に鋲でつなぎ合わせていって半球型にする。そして兜の美しさを一層際立たせているのが、兜の額の部分から生えている一対の鍬形(くわがた)であろう。「鍬形は、プレスで成形できるものはそうしますが、そうじゃないものは手切りです」と加藤さん。真鍮版に輪郭をけがいて、糸鋸で切っていくのだそうだ。

一番難しいところは?と訊くと、「やはり縅(おどし)ですね」という返答。甲冑は、膨大な数の部品、小札板(こざねいた)等で構成されているが、それらをつなぎ合わせているのが縅毛であり、紐の通し方によって、甲冑の美しい色や柄、形が表現される。

「縅を綺麗に入れにるには、一回一回力の加減を均一に合わせていかないとだめ。小札板の穴に縅毛を通すときに、引っ張りすぎると紐がきゅっと細くなっちゃうし、引っ張らなさ過ぎるとモタッとなっちゃう。だから、もう一方の手の親指で若干押しながら引くんです。この親指の腹で、ちょうどよいテンションを確認しているのです」といい、この加減が難しく、技を習得するのは、やっぱり十年はかかるという。

「節句は、五月の年一回だから、私達は同じ仕事を一年中するのではなく、時期によって違います。一年にほんの数カ月間の縅の時期が終わると、次はまた一年後で、掴んだ感覚は一旦忘れてしまいます。でも、何年も同じことを繰り返しているとだんだん手に染みこんでくる。まあ、それが十年くらいなのです」

 

 

甲冑士になるべくしてなった職人親子

 

もともと、子どもの頃から作ることは好きだったという加藤さん。ゼロから始まって、だんだん形になっていって、最後はちゃんとひとつの作品になるというのが、やっていて楽しいという。「幼稚園の頃は、仕事場には入っちゃいけなかったけど、イベント用に作った子どもが付けられる鎧があったのです。それが完成するのが楽しみで、着せてもらったのが嬉しくて、かっこいいなと。卒園アルバムに、『おおきくなったら、かぶとやさんになる』って書きました。(笑)」そしてそのまま駒本小、六中、都立工芸高校へと進んで甲冑士となった。

加藤さんの傍らで作業をしている息子の拓実さんも父と同じ都立工芸高校の出身だという。「まわりからのプレッシャーもあって(笑)、自分もなんとなくこの仕事に就くのだろうなとは思っていました。はっきり決めたのは工芸を受験した時です。僕も縅の作業が好きで、地道な作業ですけど、完成形に徐々に近づくのを見ているのが楽しいですね」とは、拓実さん。オンラインショップの開設やSNSでの発信など、伝統工芸の世界に新しい息吹を吹き込み、最近では、秋実(あきさね)の名でも甲冑制作を始めているという。

 

縅の作業をする拓実さん。

 

質実剛健でありながら彩り豊かな美の世界を追究

 

加藤さんによると、いままで問屋さんに卸しているだけでは見えなかった、お客さんの声が直接聞ける時代になってきたことが、最近では刺激になっているという。

「ホームページを見てとか、知り合いに聞いたとか、お客さんが直接うちにいらっしゃるということもあるので、そういうときに『凄いね』と言ってもらったり、自宅に飾った写メを送って下さるとか、最近はそういうのがあるので嬉しいですね」と顔が綻ぶ。

また、2代目加藤鞆美としての研究も怠りない。例えば、兜の頬の部分にあたる吹返しや額部分の眉庇(まびさし)には、絵韋(えがわ)が貼ってあるが、鹿革に描かれている図柄も格子柄、獅子柄、牡丹柄、不動明王柄と様々あり、時代によっても流行があって、それを覚えていくだけでも大変だという。加藤さんは、国立博物館のデジタル書籍を閲覧し、昔の図柄を模写して新しく図案を起こしているという。「博物館に行っても、甲冑はほぼ正面しか見られないのですが、私達職人が見たいのは後ろ側。裏っ側めくって、どうなっているか見たいですね」と笑う。

 

絵韋

 

最後にこれからの展望を伺ったところ、日常の様々なシーンに向けて新しい商品を展開していきたいとのこと。

「鎧兜って、お節句のものというイメージがあるのですが、お節句に限らない祝兜として、あるいは室内のインテリアとして、あと日常使いの小物として、小札板のストラップとか、ペンダントとか、江戸甲冑の技術を使って、人々の日常に入っていけるような、そんな商品づくりがしていければなと思っています」と語る。甲冑工匠「加藤鞆美」は、伝統技術を受け渡しながら、新しい時代を迎えようとしていた。

 

新作の祝兜を手にする美次さんと拓実さん

 

 

加藤 美次

1965年文京区向丘生まれ。幼小の頃から父の後を継いで職人になることをこころざし、都立工芸高校金属工芸科を卒業後、18歳で甲冑士の道に入る。父・鞆美の下で修行するかたわら、彫金を学ぶなどして技術を身につける。江戸甲冑の美しさを周知してもらうため、伝統的な形を残しつつ現代の技術や流行りを取り入れ、新商品開発や新たな製作方法を模索しアップデートしている。個人名義の義駿(よしとし)としても作品を出している。経済産業大臣指定伝統工芸士、東京都知事指定伝統工芸士、東京都青年優秀技能者賞、文京区技能名匠者。

所在地:文京区向丘2-26-9
問い合わせ先:timon19652004@yahoo.co.jp