Craftsman来て見て体験演者

高橋由貴子
神田川が流れるここ文京区水道は、印刷博物館や数々のギャラリーが点在し、文京区のアートシーンを牽引するエリアとなっている。その中心ともいえる安政年間(1855~1860年)創業の高橋工房は、江戸木版画の摺の工房であり、版元も兼ね、海外のキュレターや美術コレクターから常に熱い注目が集まる工房である。六代目の高橋由貴子さんに話を聞いた。
絵師、彫師、摺師の分業と、
企画・制作をプロデュースする版元
江戸木版画とは、日本独自の多色摺り木版画の技術で、江戸時代には花見や相撲、歌舞伎などの庶民の暮らしに密着したテーマを題材にして摺られていた。そもそも日本の木版画技術は、仏教とともに経典を制作するためのものとして奈良時代に伝来したという。時代を経て、幕府が江戸に開かれてからは、貴族や武士だけではなく一般庶民が文化を楽しむようになり、そこで生まれたのが木版画の浮世絵である。複数の版木に見当と呼ばれる印を付けることで、色がずれることなく摺れる版木を換えて色を摺る工夫がされて、鮮やかな多色表現ができる技法に発展した。
「どこどこに行けば富士山が見られるよとか、吉原にはどんな花魁がいて、芝居小屋に行けば団十郎がやっているよとか、江戸のグルメ番付とか、江戸の頃は情報誌として、みなさんに手にとって見てもらうものでした」と、高橋さんは解説する。
自分の描いた絵を自分で彫って自分で摺る創作版画と違い、江戸木版画は、下絵を描く絵師、絵柄の色ごとの版木を彫り上げる彫師、バレンで和紙に絵柄を摺り重ねて作品を仕上げる摺師の三者による分業制となっている。さらに、江戸木版画では、版元と呼ばれる重要な役割を担う人がいる。
「版元は、絵師、彫師、摺師を束ねる、今でいうと出版社みたいな役割の仕事です。例えば、東海道五十三次をやってみようとなったら、誰に描いてもらって、誰に彫らせて、誰に摺らせるか。版木を手配して、紙はどこの産地のものを使おうかと、そのトータルなプロデュースをする仕事、それが版元です」
高橋家は代々摺師の職人の家系であったが、由貴子さんの父である四代目の高橋春正氏からは、版元も務めるようになったという。
高橋工房が運営する「道のギャラリー」。高橋さんのコレクション等を展示している。工房はこの路地の奥にある。
古からの技を継承し
美を見立てるための目を養う
四代目高橋春正氏は、戦後、細川家の依頼でセザンヌの作品を木版画にしたり、天皇皇后両陛下の前で木版摺り実技を披露するなどした、江戸木版画の第一人者であった。
「父は明治38年の生まれで、小学校を出てこの仕事に入ったということですから、昭和の中頃から版元をしていたのでしょう。私は9人兄弟の末っ子でしたが、自分の版元の仕事を継がせようと白羽の矢を立てたのが私なんです。物心ついた時から歌舞伎は毎月見ていました。高校くらいになると、お中元のお品ものの団扇の図案を任されるようになりました。父と話をするときは、美術の話題以外は余り口をきいてはもらえませんでした」と振り返る。
高橋さんが短大を卒業する頃からその指導の厳格さは増していったというが、35歳になるまで、素人の絵を見ること自体禁止されていたのだという。公の美術館で自分の好みでない作品に出会っても専門家がきちっと目利きをした絵であるからまずは、全てを見なさい、と。
「それで35歳になったら解禁されまして、素人さんの作品の中にも光るものもある、それはおのずと向こうから光ってくれると教わったのですが、たしかに本当にそうでした。そうやって私がポッと手にとった作品をそれとなく置いておくと、時には見識ある先生方も褒めてくれます。なんなら、百均の器でもいいのです(笑)。要はそれをどう見立てて、使うかが問題で、使いこなせるまでの目を自分に養えばいいのです」
版元として動くためには、彫りも摺りも知らなくてはだめだということで、江戸の色彩を現代に蘇らせた木版画家として名高い立原位貫氏の教室で学んだこともある。特別扱いされないためにと身元は言わずにでの参加だったが、度重なる玄人肌の質問に、「いったいあなたは何者なんだ?」となった笑い話は、立原氏の自伝の中にも登場する下りだ。
それと同時に、父のすすめで軸装等の表具も勉強した。ただし、それらのどの技能に対しても「自分の腕は極めるな、目だけは肥やせ」と言われたという。自分で極めてしまうと、それが限界になる。職人の大変さが逆に分かってしまうから、求める限界も甘くなりかねない。
「だから私、職人の間では、“無茶ぶりの高橋”って言われています(笑)。ただ、私にしてみれば、私の言うことに挑戦してみれば、あなた自身が必ずステップアップできるのよ、という信念がありますから」
摺師の工房。奥が職人の作業台、手前がその弟子の作業台。
絵具。天然の鉱物や植物などから採取される顔料・塗料を中心に使う。
山桜の木の版木に絵具と糊を置いて、ブラシで絵具を伸ばす。
見当(版木上に彫られた溝)。
2カ所の見当にあわせて紙を置く。
紙の裏からバレンを当てて絵柄を摺る。「百枚注文があったら、一つの色を一度に摺り、その後新たな色に入ります」と、色毎に版を変えて摺り重ねる。
江戸木版画の技の伝承と
後継者の育成
高橋さんの子どもの頃、当時水道一丁目にあった工房には、高橋さんの父、兄、姉、職人が数人いて、小僧さんもみんな住み込みで働いていたという。現在は二人の摺師を抱えているが、高橋さんは、東京伝統木版画工芸協同組合の理事長として伝統技術の伝承と、後継者の育成にも尽力している。
「今も昔も職人さんは、みんな個性豊かです。昔は、親方の背中を見て技を盗めと言っていましたが、今はそんなことを言っている間に年寄りの職人は死んでしまいますよ(笑)。江戸版画は、全国に240ある伝統的工芸品の一つで、組合員としては、ブラシ屋さんや板屋や絵具屋さんも合わせて約40名ほどいます。興味を持った若者が弟子入りしたいという話がありました。是非、高橋を訪ねてください。」
構想より10年の時を経て、江戸時代の春画を復刻させたのも、江戸の美を現代に発信すると同時に、組合の職人の腕を限界までに引き上げるためという意味合いもある。2013〜2014年に大英博物館で大規模な春画展が開催されて、現地のキュレーターに呼ばれて見に行った際、これこそ自分がやるべき作品に出会ったという。
「春画は、昨今表だって誰もやったことがなかったのですが、あの中の技はまた一つ違うものがあります。例えば、春画は毛の描写も細かく、それを普通の凹凸のある紙で刷ってしまうと、繊細な線は表現できないため、摺る前に湿して、ばれんで紙の目を潰して平らにする必要があります」
そんな技術の一つひとつを追究していかないと完成することはできない。
「江戸木版画全体がレベルアップするには、組合員全員でやらなくては意味がありません。ですから、全部でシリーズ12枚の絵を、いろんな職人を組ませて復刻しました」
こうしてリリースされたのが、鳥居清長「袖の巻」である。
手にしているのは、舘鼻則孝氏をディレクターに迎えた「江戸東京リシンク展」(2021年)の図録。壁に掛かっている舘鼻氏とのコラボレーション作品は、イギリスのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ収蔵された。
職人の技を究める
その先にあるもの
高橋さんは、現代のライフスタイルに合わせた作品を作るために、建築家、彫刻家らとのコラボレーションも積極的に行っている。
レディーガガのシューズデザイナーとして世界的に人気のある舘鼻則孝氏の筆による令和版浮世絵「東海道五十七次」もそのプロジェクトのひとつで、舘鼻氏の特徴的なモチーフの中に浮世絵風なタッチの絵を滑り込ませている。こうして、最先端の現代アートの中に、昔の技を落とし込んでいくのだそうだ。
「でも、全ての原点にあるのはあくまでも浮世絵版画で、いまだに欧米ではコレクターがいて、根強い人気があります。この浮世絵版画の中に木版画の全ての技が入っているのです」
高橋さんは、「その技術を習得すれば、少々のものが来てもびくともしない」と、職人の技に裏打ちされた揺るぎない自信を見せる。日本の伝統的な技能を携えていれば、新しい創造の美の翼はいくらでも世界に広げていけるのだ、と。
浮世絵ペコちゃん。ミルキー発売70周年を記念して、不二家(FUJIYA)とコラボレーションした。赤色は、何度も重ねて摺らないと深みのある色は出せない。(赤)と(花柄)がある。限定70部で製作した作品は既に完売している。
最後の浮世絵師として名高い、月岡芳年の筆。「新形三十六怪撰 二十四孝狐火之図」
歌川広重「東海道五十三次 庄野 白雨」
高橋由貴子
高橋由貴子(たかはし ゆきこ)
神田の病院で生まれ日本橋育ち。株式会社高橋工房代表取締役。高橋家は代々続く江戸木版画の摺師の家系で、四代目の父・高橋春正氏の代からは版元の暖簾も兼ねており、幼い頃から父より版元としての教育を受けて育つ。兄である五代目の高橋新治郎氏の後を受け、2009年に六代目に就任。版元として、江戸木版画を企画・制作する一方、国内外での講演会、実演会、展示会などを行い、日本の伝統工芸の伝承とPRに務めている。東京伝統木版画工芸協同組合理事長。浮世絵木版画彫摺技術保存協会副理事長。
所在地:文京区水道2-4-19問い合わせ先:http://shop.takahashi-kobo.com/